Bird Lives: 中毒 その2

この文章は、素晴らしいパーカー・トリビュートサイト"Bird Lives"掲載の文章を、著者Llew Walkerさんのご好意により、私が和訳したものを掲載したものです。義務教育レベルの英語力で「エイヤァ」と訳したものですので、問題のある個所がいくつもあろうかと思います。間違いをご指摘いただけると幸いです。
また資料的な使い方をする場合は、くれぐれも原文を参照いただきますようお願いします。 (よういち)

原文はこちら:"Bird Lives: Addiction"


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チャーリーのアルコール中毒については、彼の父親のアルコール中毒が影響しているのだろうか。とりわけ、ヘロインの禁断症状をしのぐ助けとして、チャーリーは酒に頼った。また本人の意志と事情もあって、チャーリーは麻薬中毒から抜け出そうと、彼の人生で何回かは、ヘロインやその代用としての酒やその他麻薬類をやめていたこともあった。

チャーリー・パーカーが若くして死んだのはヘロインが主な原因と常に思われてきた。チャーリーの生きていた時期にジャズメンのヘロイン中毒が問題になり始めている。チャーリーの到達した音楽の高みに追従しようとするミュージシャンが、彼のヘロイン常習を見習ったのだという意見もある。ギディンス制作のビデオの中でロイ・ポーターはこう言っている。
「当時、ヘロインがとてもはやった。バードがヘロインでハイになっていたら、全てのミュージシャンやファン達もそうすべきものなのだと思い込んだものだ。」
とはいえ、チャーリーが薬におぼれる以前から麻薬の常習は蔓延していて、ペンダーギャスト政権のカンザスシティではあらゆる所であらゆるものが入手できていたのだと想像がつくだろう。ドリスはこう述べている。
「このことははっきりしておきたいのですが、彼が麻薬中毒を生み出したのではないのです。彼のやってきたこと、破滅行為もしかり、こういうことはずっと昔から行われてきたことなのです。」

彼が死亡した当時、チャーリーは34歳の年齢よりも年老いた風貌をしていて、遺体を検体した医師が53歳、文献によってはそれ以上、の年齢の身体だと診断したことは有名だ。ヘロインは彼の身体を蝕んだ、とはいえ酒や麻薬は、彼の心と身体を落ち着かせることにもなった。彼はまたキャメルの煙草のチェーンスモーカーでもあり、若いときにはマリファナも吸っていた(現在の医学研究では、若年期のマリファナの吸煙は後年に精神分裂症のもとになるといわれている。ニューヨークのベルビュー病院の記録によると、彼は潜在的に複合型分裂症の様相を見せていると認めている)。彼の体重は大きく変動しており食事の節制には無頓着であったと見える。また病院の記録によれば、彼が晩年の十年間に最低一度は梅毒の治療をしていた様子が伺える。彼は消化器の潰瘍があり、ときどき彼を苦しめた。そして後年はいくども肺炎にかかった。これらすべての要素が、若くしてチャーリーがなくなった原因であるのは明らかだ。だが、批評家のほとんどはヘロインと酒が主な原因と言っている。

彼が薬物を、そして静脈注射を、いつ頃から使い始めたかははっきりしていない。彼の人生を総合的に見る中ではさほど重要な事柄ではないかもしれないが。何にせよ、批評家や証言者の言及はあまり役に立たない。次の有名な証言が示すようにころころ変わるのだ。

「私は1932年には放蕩をしていて、この時に家族の友人がヘロインをすすめたのだ。薬を使ったその後、なぜだか分からなかったが、ひどく気分が悪くなって朝早くに目が覚めた。麻薬が切れたのだ。」

これが次のバージョンに変わる。

「私は1932年、12歳の頃には放蕩していたのだが、その3年後に家族の友人がヘロインをすすめたのだ。薬を使ったその後、なぜだか分からなかったが、ひどく気分が悪くなって朝早くに目が覚めた。麻薬が切れたのだ。」

チャーリー自身がときには誇張したことを言ってしまったせいもあっただろうが、おそらく彼が時期についての発言に間違いをしたのがそのまま批評家により、興味深く、ためになり、もっともらしいチャーリーの思い出として形成されていき、確固としたものになったのではないだろうか。しかし、1949年のダウンビート誌のインタビューの中ではこう述べられている。
「チャーリーはこう語る。彼がまだカンザスのいち少年だった頃、公衆便所で見知らぬ人から(麻薬を)勧められた、と。」

また別のインタビューでは、チャーリーは初めての本格的な麻薬の経験を、1942年ごろカンザスシティでパーカーに会ったベーシスト、ウィリアム・バディ・ジョーンズにこう話したと述べられている。
「バードは15歳のときはじめて麻薬でハイになった。彼はそのときの感じを話してくれた。当時の彼のなけなしの金、いまよりも価値があった1ドル30セントを引き出してこういったのだ。”これと同じようなものがこの世の中にあるか?この金でどれだけ買えるのだろう?”」
テュティ・クラーキンはこう言った。
「私がチャーリーと知り合った頃、かれはナツメグを食べてハイになっていた。・・・バードの嗜好はナツメグからベンゼドリンの吸引に向かった。この薬を開けてワインに浸すのだ。そしてマリファナからとうとうヘロインへと嗜好は移って行った。」

ダンサーであるベイビー・ローレンスは、自分が最初にチャーリーへ麻薬を教えたのだと、ジョージ・ウェインの著書「Myself Among Others」で言及している。
「”チャーリーの習癖が、全世代のミュージシャンがヘロインに走ることに、どれだけ影響を与えたのだろね。”誰かがこのように強調した時、ベイビー・ローレンスは誇らしげにこう言った。”チャーリー・パーカーに教えたのは僕さ!”昔彼はカンザスシティでバードに麻薬を教えたというのだ。・・・この話が本当なのか知るすべは無いが、ベイビー・ローレンスはそう思い込んでいる。疑わしいけれども、名誉の勲章のような功績をたてたのだと。」

正確にはいつチャーリーが薬物を使い始めたのか、その真実が分からないことは、明らかなことだ。何歳のときに始まったのか正確に見定めようと試みられたこともあったが、まったく満足できるものではなかった。最初の妻レベッカは、彼は高校時代麻薬注射をしていなかったと言う。学校では定期的に性病や妊娠のための定期血液検査をしていて、当時パーカーが麻薬注射をしていたら、発見されるはずだからだというのだ。レベッカは何歳までの生徒がそのテストを受けていたかは明らかにしていない。しかしおそらくどの学校機関でも性病や妊娠のテストを15歳未満の生徒に課すようなことはしていないだろう。この歳はチャーリーが退学した時期だ。一方のレベッカはチャーリーより2歳年上であり、当時17歳の卒業時期で、血液検査をするのにはよい時期であったろう。チャーリーが、卒業するレベッカと同じ歳になる頃には、すでに学校を出て2年が経過しており学校機関の及ぶところではなくなっている。なので高校の血液検査を、チャーリーが学校でヘロインを使っていなかったという根拠にするには乏しいところがある。うるさく言えば、チャーリーがすでに当時から麻薬注射を使っていたとしたら、生徒の腕に注射跡があれば、おそらく目につき無視できないことになったろう。

またギディンスの著書で、レベッカはいつチャーリーが薬物注射を使い始めたかを明確に言っている。彼女は、17歳のチャーリーが注射をしており、初めてその場を見てショックを受けたことを述べている。とはいえ、彼女が話すこの場面の時に、パーカーが麻薬の初心者だったと言っているわけではない。この場面で彼女が伝えているのは、これが何なのかを知りながら、取り乱さずにすみやかにその儀式を執り行う男の姿なのだ。なぜ彼がその儀式をレベッカに見せたがったのかは明らかでないが、少なくともこの時期にはすでに薬物注射をしていたのだということを示すものではある。だがやはり、いつからそれが始まったのかを示すものではない。このことから明白なことはレベッカがチャーリーの行動について多くを把握していなかったことである。同様にチャーリーの音楽的な進歩についても、よく把握していなかったことも言及されている。チャーリーは不在がちで、彼が初めて見せつけたように思えるその習癖は、ずっと以前からこれを続けていたのだよ、ということをレベッカに示す振る舞いだったのだろう。

(続く)







2005. 9. 3 Llew Walker
日本語訳 よういち




This text is from "Bird Lives" translated into Japanese,
with permission granted by Llew Walker.

Permission granted by Doris Parker under license
by CMG Worldwide Inc. USA


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