Bird Lives: 青年時代 その3
(改訂第2版:草案)


この文章は、素晴らしいパーカー・トリビュートサイト"Bird Lives"掲載の文章を、著者Llew Walkerさんのご好意により、私が和訳したものを掲載したものです。義務教育レベルの英語力で「エイヤァ」と訳したものですので、問題のある個所がいくつもあろうかと思います。間違いをご指摘いただけると幸いです。
また資料的な使い方をする場合は、くれぐれも原文を参照いただきますようお願いします。 (よういち)

原文はこちら:"Bird Lives: Adolescence"


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プロボクサー、ジョー・ルイスがマックス・シュメリングに負けた夜と同日、1936年6月16日にチャーリーはレベッカに結婚を申し込んだ。その一ヶ月後少々、1936年の記録的な酷暑であった7月25日、黒人陸上選手ジェシー・オーエンスがベルリンオリンピックの出場に備えていたころ、当時15歳のチャーリーはジャクソン・カントリー裁判所で、レベッカと結婚した。おそらくレベッカの母の希望に反して。チャーリーはわずか15歳。アディはその結婚への許可と、婚姻証明書へのサインをする必要があった。ギディンスの著書にその時の様子が書いてあり、アディは息子を女性と早く結婚させたがっていたようなことが書かれているが、レベッカは違った印象を語っている。
「ミズ・パーカーは私とチャーリーが結婚するのを本当には歓迎していなかったようです。・・・でもチャーリーが望んだことですから。私たちが彼女と住んでいたときには、料理に掃除や洗濯とか、なんでもしてくれました。」

どうやらチャーリーは結婚指輪の用意を忘れていたようで、アディが自分の指から指輪を抜いて、レベッカとチャーリーの結婚指輪として差し出したようだ。だがこれは確証を得てはいない。レベッカは回想する。
「チャーリーのお母さんが繁華街に私を連れて行って、帽子と靴を買ってくれました。広いつばの帽子で、そして靴は年配の女性が履くようなものだったと思うけど、結婚式の日にそれを履いたの。」
披露宴にはチャーリーの父や叔父のジョンが参加した。

レベッカがチャーリーと結婚したときの年齢については何度も話題になり、間違えられた。レベッカ自身が間違えたこともある。しかし市民台帳が年齢を明らかにしてくれる。彼女はチャーリーより2歳年上で、2月の誕生日を過ぎて、この月の時点で18歳だった。ところが結婚証明書のコピーには彼女の年齢は19歳と記載されている。
それにしても美しき18歳の女性が15歳の甘えん坊と結婚したのは、どことなく不自然にみえる。多分、彼女の両親が離婚していたことに関係があるのではないだろうか。5人の娘と1人の息子を持つレベッカの母親が考えるに、さほど2人がお似合いとは思えなかったものの、経済上の事情から同意したのではないだろうか。ついでに、2人とも愛し合っているようだということで。
若い2人はアディの家に住んでいたが、チャーリーはミュージシャンとして経験を積んでいくにともなって、家にいると窮屈さを感じるようになったようだ。チャーリーがサキソフォン奏者として大きく成長していたことにレベッカが気がつかなかったという説明が、ここからある程度つけられる。

10月の感謝祭の仕事へ向かう途中のオザーク高原で、チャーリーは自動車事故に巻きこまれた。このとき同乗していた仲間のベーシスト、ジョージ・ウィルカーソンは死亡してしまった。チャーリーは肋骨を何本か折って脊柱を痛め、数ヶ月ベッドで寝たきりだった。もうちゃんと歩けなくなることを恐れながら。よかったことといえば、チャーリーの古いサックスがこの事故で壊れたので、その弁償金で新しいセルマー製のサックスを買うことができたことだ。しかし、レベッカや母親に世話してもらうことができたはずだが、数ヶ月ベッドでおとなしくしていることは我慢ならなかった。また、この出来事がきっかけとなって、チャーリーは麻薬注射におぼれていったのではないだろうか。彼の怪我の痛みをやわらげるためにモルヒネが処方されたといわれているのだ。レベッカもチャーリーの痛みの対処のためにモルヒネが与えられたと証言している。
「ヘロインを使うと痛みをかなりやわらげることができるのだけど、医者はチャーリーとお母さんに、これがどれだけ危険かを警告していました。ヘロインをずっと使い続けると、あと18から20年までしか生きられないと言われたの。」

このときの新しいサックスはチャーリーの3つ目の楽器となったようだ。最初のサックスはテープは箔で部品をつなぎとめてかろうじて演奏できる程度のしろものだった。一年以上プロとして活動しているなかで、そのおんぼろのサックスをライブで使っていたとは考えにくい。2つ目のサックスは今ある文献の中で確認することはできないが、テュティ・クラーキンは若きチャーリーに190ドルするサックスを買ってやったと言っており、これが2つ目の楽器といえよう。

パーカーに関する言い伝えの一つとして、ジョージ・E・リーのバンドとともにオザーク高原にひと夏滞在したときに、経験をつんだミュージシャン数人から学んで、一流のサキソフォン奏者になったという話がある。チャーリーはカウント・ベイシーのレコードをいくつか持って行き、レスター・ヤングのソロを暗記したとのこと。ただ実際には、このオザーク高原への遠征は、何度もチャーリーが続けた雲隠れのひとつで、2度ほどの夏に続けて実施することでチャーリーの腕は磨かれていったようだ。「チャーリーは長いこと外出して、あちこちを見て回ったり体験していたようです。」とアディは述べている。オザーク高原への遠征の実際の時期は一般的には1937年夏と言われているが、チャック・ハディックスは1936年の夏と主張している。ハディックスの言うことが本当なら、パーカーは16歳の誕生日のころにはもうミュージシャンとして完成していたことになる。だがそうなると、チャーリーはレベッカとの結婚直後に数ヶ月家を空けることになり、これはちょっと妙だ。また、その丁度一年前は、レベッカの卒業式で彼はバルブホーンを演奏しており、音楽的な発達順序がしっくりこない。さらに、その年末は彼が自動車事故で数ヶ月間寝たきりになっていた時期だったことも考えなければならない。これでは、レベッカが4月まで身ごもらなかったのは当然だ。

チャーリーの演奏者ユニオンカードを見ると彼は1936年夏ごろは遠出していたようだ。チャーリーはこの夏にオザーク高原で過ごしていたというハディックスの主張を、この事実が立証することになる。チャーリーはユニオンの費用を自分で払っていたはずで、郊外に出かけていたら、そのお金は払えなかったはずだ。1935年の10月31日に彼は入会費として2ドル払っており、11月29日に2ドル支払っている。そして翌年の6月12日に1ドルを支払い、この日に正式メンバーとなっている。その4日後にチャーリーはレベッカにプロポーズしているのは興味深い。ユニオンの正式メンバーになったことで、レベッカを養っていけると考えたのだろう。だが支払い一覧表へのその次の記入日は9月になっており、「入会金の不足と会費の未納で除籍」と明記されている。このことから当時彼はカンザスシティにはいなかったと考えられる。もし彼がカンザスシティで働こうとしたらユニオンの会員である必要があったからだ。おかしなことに自動車事故の起こってから9日後の11月9日、アディの看護を受けて寝たきりになっていながらも、ユニオンへの費用を支払って会員へ復帰している。これは彼が新しいサックスを買ってもらったのと同じ、示談事項の一部だったのかもしれない。

翌年の夏もチャーリーは遠出をしていたようだが、8月に一度だけ会費の支払いをしている。このことから1937年は最低1日はカンザスシティにいたことがわかり、この点ではハディックスの主張を補うことにもなる。結論としては、まことしやかに語られるオザーク高原への遠征は、2年のうちのどちらかにあったのかもしれない。ただ、オザークへ行く途中で自動車事故にあってハロウィンの仕事を駄目にしてしまったことからもわかるように、この遠征は一夜の仕事であったり、一定期間の契約であったりと多様な機会があって、すでに述べたように2年に渡る夏の間も様々なかたちで何度も滞在していたのではないだろうか。チャーリーがジョージ・E・リーのバンドで両年に渡って働いていたのか、それとも別のバンドで働いていていたのか、それはさだかではない。エディ・ベアフィールドは言う。
「チャーリーはオクラホマへ行ってバスター・スミスと6ヶ月働いていたことがある。スミスはチャーリーに演奏の仕方をみっちりと教えていたようだ。」
だがこの事実はいまだ立証できていない。

チャーリーの627地区ユニオンへの所属履歴を見ると、彼がユニオンを抜ける1949年11月12日まで滞納と一部支払いを繰り返し、抹消と復帰を繰り返している。いうまでもないが、チャーリーはユニオンの会費をカンザスシティに居るときは支払い、不在にしているときは支払っていない。なのでチャーリーの活動をユニオンの記録から解釈するのは、良い方法だろう。

いずれにしても、1936年もしくは1937年の”雲隠れ”の時期を経て、チャーリー自身も言うように、彼はミュージシャンとして生まれ変わった。ジーン・ラメイもこの変貌をこう述べている。
「彼はワインを飲みながらしゃべっているような”スウィート・ルーシー”サウンドを捨て去っていた(ワインのことを”スウィート・ルーシー”と呼んでいたのだ)。彼の演奏スタイルはすっかり変わっていた。カンザスシティが誇るミュージシャンになっていた。」
オリバー・トッドはこう語っている。
「チャーリーはメロディーを完璧に悠々と吹きまくっていた。それでなんだか涙腺がゆるんできたんだ。奴はこっちをみると”何で泣いているの?”と聞いてきた。そこでこう言った。”奇跡を見たからだよ。” たしかに奇跡だった。練習をつめばここまで到達できると教えてくれたんだ。彼はオザークにこもって、抜群の腕前になって帰ってきた。まったくたいした奴だよ。」

ひとつ確実にいえることは、チャーリーは1937年までにはジャズ・ミュージシャンとして完成していたということだ。ジェイ・マクシャンは語る。
「私が始めてチャーリーを見たのは1937年の11月か12月ごろ。カンザスシティの有名なジャムセッションをやっているときに見かけたんだ。その夜、私がリズムセクションに加わっているときに生意気そうな坊主がステージにあがってきた。17歳に達したぐらいで、高等学校の生徒のようだった。切れ味の良い音で、コードチェンジも良く知っていた。演奏中に彼は元来の進行から外れたので、なにかをしくじったんじゃないのかと思ったんだが、猫が四本足で地面に着地するように、元の進行に復帰したんだ。秋にオザークから戻ってきて、奴はそれができるようになっていたんだな。」

ジェームス・コロンバス・ ”ジェイ”・マクシャンは1916年にオクラホマ州のムスコギーで生まれている(この地はアディ・パーカー、そしてドン・バイアス、バーニー・ケッセルなどの生地でもあった)。そして1937年にカンザスシティにやって来た。チャーリーとの出会いについての別バージョンの話として、1937年1月に12番街にあるバーリダク・クラブ(バーレーデュークと表記されている文献もある)で初めてチャーリーを聴いたというものもある。
「通りがかりに演奏が聞こえてきた。私たちは誰が演奏しているのか知りたくて中に入ったんだ。・・・奴が演奏し終わったときに、私たちは彼に会った・・・。”君の吹き方を気に入ったよ”と私は伝えた。2,3ヶ月後には、一緒に働くことになったんだ。」
そして、別のインタビューではマクシャンはこの話を少し変えて語っている。
「私が奴の演奏を聴いたのは、カンザスにやってきて3ヵ月後のことだ。・・・奴は街路で練習していて、その演奏を聴いたんだ。”この街のミュージシャン達に会いたいと思っているんだが、君はどこからきたんだい?”と私は聞いた。」
この出来事はオザーク高原への遠征直後のことだ。ハディックスはマクシャンがカンザスシティにやってきたのは1936年の秋だと確証している。


(続く)


2006. 1.29 Llew Walker
日本語訳 よういち



This text is from "Bird Lives" translated into Japanese,
with permission granted by Llew Walker.

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